A-05 日本人の生徒の増加

1985年3月E日

教室 生徒

 なんとなくユーウツな日だった。夕方、学校で歓迎会と送迎会を兼ねたパーティがあって、日本人の生徒が来週からまた増えるとの校長先生の話。これまで日本人の生徒が6割、それ以外が4割の比率だったが、来週からは日本人が7割、それ以外が3割の比率になるという。

 オーストラリアに来ようと決心するまで、パースなんて町の名はただの一度も聞いたことなかった。このパースならば日本人は少ないだろうと思い、またシドニーやメルボルンみたいな有名な町なんか誰が行くかよ、というアマノジャク的な考えも手伝って、あえて西海岸のこの町を選んだのだが、同じようなことを考えるやつなんてどこにでもいるらしく、マンマとわれわれは、お互いがお互いを罠にハメ合うことになってしまったのだ。

 今でさえ学校では日本語がやたら氾濫して、語学習得には決して理想的な環境ではない。それが明日からはさらに加速されるとは・・・・。

 また今日の夕方、バスの乗り場がわからずうろうろしている間に、今日買ったばかりの英語のテキストをなくしてしまった。そして何よりも頭にきたのが、MTTというこの町の公営バス鉄道会社の案内サービスに何十回電話しても、まったく応答がなかったことだった。

 オレは少し町から離れた場所で、右も左もわからず、文字通り右往左往。電話ボックスの電話帳でMTTのバス運行案内の番号をやっとの思いで見つけ、すがる思いでダイヤルを回し続けたのだが、聞こえたのはただあのピーピーという呼び出し音だけ。電話帳にははっきりと、案内は午後6時まで、とありまだ時間内なのだが、ホント頭にきた。

 オーストラリア人の仕事に対する態度というのは日本人のそれと比べて、決して高いものではないことは、本を読んであらかじめ頭のすみには入れてあった。だが、今日のような本当に困った時に事がまともに運ばないと、まったく絶望感に似たような気持ちさえ覚える。

 結局、通りすがりの初老の男性に尋ねて(このオッサンの英語がまたヒジョーに難解であったのだが)、それから2時間かかってなんとかニコルソン家までたどり着いたが、これがこの国に対して大きな疑問を感じた最初の事件であった。

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