筆者とこのストーリー

この旅行ストーリーを読むに至ったあなたへ。

ご訪問ありがとう。

いまはベータ版だが、このストーリーを僕がどんな経緯でネットに公開することにしたのか、どのような内容か、そしてなぜいま40年前のストーリーを公開するのか、などをお知らせしたいと思う。

経緯

経緯その1:このストーリーを書いた時点

筆者の僕は1958年の3月生まれ。

1985年2月に日本を出て、1988年2月の帰国まで丸3年間、合計26ヶ国・地域を訪れた。外地にいたのは26歳から29歳ということ。

外遊中ノートに日記やメモとして書き留めたものを題材として書き始めたこの旅行ストーリーは、帰国後の1年を費やして1989年5月にほぼ完成した。

ボリュームは400字詰め原稿用紙で約1,100枚以上≒文字数で45万文字ほど。つまりふつうの単行本なら2-3冊分、新書なら5-6冊分くらいの量になった。

それを何度か読み返し、自身で推敲を重ね、ほぼ完成したとき自分にとっての金字塔を作ったような思いになった。また他の多くの人たちにとっても大きな価値のあるものであるはずだとも思った。

そんな思いから、1989年時点にいくつかの出版社に電話などで出版の可否を問い合わせた。だが残念ながら当時まともに相手にされることがなかった。

実際その活動の中でわかったのは、書いた本人つまりその時点の僕がふつうの人で、特段の価値を持つ人でも世の人の関心を引きつける人でもなく、そんな人が書いたものが世の人々の興味を引くのは難しく、出版物として商業ベースには乗せるのはかなり困難、ということ。

つまり当時としてはかなり珍しい経験をしてきたのだろうが、その経験を踏み台にして何か大きなことを成し遂げた、あるいは社会的に意義のあることをした、などの実績が僕にはないため、書いたものも特に価値のあるものとは外からは見えず、興味の対象にもならない、などということがわかってきた。

それに対して、当時のぼくは「なんだ、くそったれー!」とやるせない思いを持ちながらも、一方でやはりそうか、そんなものか、ふむふむ、とけっこう冷静に納得した。

そして本を出すには、まず僕が何か世に価値のある人間になることが先なのだと理解した。

経緯その2:ストーリーを公開するきっかけ

だが、その後自分なりにそれなりの努力をしてきたもののその甲斐なく、30数年たった今も残念ながら世に価値のある人になった、と言うには無理があるままだ。

ただ先述の通り、自分としては書いたあの3年間の旅行ストーリーは大きな価値があるとの強い自負がある。

というのは何度読み返しても、ところどころに出てくる大爆笑シーン、命が危なかったシーン、数々の失敗談と成功談、いまだから笑える(その時点では半死状態の)強烈な体験、日本を外側から見た指摘、感情が激しく動いた会話、カネがほぼないにもかかわらずのほほんとしている自分、などが文面に綴られていて、めちゃくちゃ面白くかつ刺激的だからだ。

そして60代の後半になったいま、少なくとも周りの知人や友人にはこの旅行ストーリーを読んで知らなかった僕の過去をわかってもらいたいという気持ちが高まり、そしてさらにこの書き物をやはり世の多くの人にも読んでもらう努力をもう一度してみようと思うに至った。

そう思わせたのは、あの比類なき経験をより多くの人々に知ってもらいたいという承認欲であり、最近同い年の友人が亡くなり有限の現生との競争に時間切れ敗北してこの世に足跡を残す機会を逸することへの恐怖感があることは間違いない。

そしてさらに、当時としてはかなり特異な僕の経験、思いそして願いを知ってもらうことが、僭越ながらいまの2020年代あるいはその後の日本の人々にも、わずかでもプラス効果を及ぼすのではないかと考えたためだ。

内容について

記事の配信

今後、日記&エッセイのようなスタイルで順次記事をuploadしていく。

記事をさらに精査するので、頻度は週に2-3回を予定していて、最後の記事がuploadするのは数か月かかる見込み。

どんな経験をしたか

ざっと以下のようなことを経験した。

*パース(西オーストラリア州都)で、バレーボールの最上位リーグのチームに加えてもらったり、世界各国から来た移民の人たちと一緒に学習して、多様で大きなカルチャーショックを受けたこと。
*西オーストラリア州北部の鉄鉱石を搬出する港町カラーサ(人口2万人。東の隣町まで砂漠越えの250km、西の隣町まで同600km、真夏は毎日摂氏45度の地の果ての砂漠の町)で、日本船向けのセールスマンとして悲喜こもごもの毎日を送ったこと。
*タイ、ミャンマー(当時はビルマ)、フィリピンなど当時はまだまだ発展途上国バリバリだった東南アジア諸国をバックパッカーとして回ったこと。
*ロンドンのヒースロー空港の入国審査で引っ掛かり収容所で2泊3日拘留されて、結局イギリスへ入国できず、パリで欧州の第1歩を踏み入れることになった一連の顛末。
*オランダのアムステルダムからトルコのイスタンブールまで、ヒッチハイクと同乗サービスを使って自家用車でヨーロッパを横断したこと。
*イスラエルの2カ所の農場でボランティアをしたこと。1つはガザ地区(2023年10月に紛争勃発したところ)から直線距離でわずか10kmにある南部の砂漠地帯。もう一つは北部ゴラン高原にあるガリラヤ湖の東斜面。そして夢(≒悪夢)のようなエジプトの旅。
*ノルウェー最北端(=ヨーロッパ最北端)の北極圏内の人口1,300人の漁村にある海産物の冷凍食品工場での就労生活。
*台湾の年配の方々と会うたびに、日本語でほのぼのと会話したこと。
などなど。

かいつまんでみると、丸3年間に渡って26ヶ国・地域を訪問し、3つの国の6つの場所で就労し、居住し、数万の人たちと対話した。

訪れた場所はバラ色のような素晴らしいところもあるが、上述のように、地球の果てのようなところや危険地帯や収容所といったような、とんでもない場所がいくつもある。

つまり日本では決して見聞できないことを、身体を使って五感で星の数ほど経験した。憂い、苦しみ、後悔、楽しみ、驚き、悲しみ、孤独感、怒り、寂しさ、虚しさ、極端な暑さと寒さ、貧しさの臭いなどを毎日のように体感した。

あの3年間はその後の自分に途方もなく大きな影響を与えた。おかげで失ったものやマイナス効果があったことは間違いないが、得たものとプラス効果はその何十倍も大きいと言い切れる。

英語コミュニケーション力の向上に伴い内容が深化

特に後の2年はほとんど日本語を使わない生活だったので、英語スキルが上達し、外国人とのコミュニケーションがスムーズかつ深くなり、うわべだけではない突っ込んだ会話ができるようになっていった。

それらは若者同士の裸の思いのぶつかり合いなので、ビジネス上での会話とは異なる、かなりダイレクトな会話がなされている。

おかげで英語については、講師や翻訳をプロレベルでこなせるようになった。またオーストラリア、イギリス、アメリカの3つの英語アクセント(発音のクセ)を使い分けする芸ができるようになり、例えばイギリスのリバプール辺りの人と会ったとき、あえてロンドンアクセントで話すと「あなたロンドン生まれなの?」とか言われるまでにになった。

当初のころはあまり外国の人たちと細かいことまで話せず、自分のことを中心に書いているが、時間がたつにつれ、周りの人とのコミュニケーションのレベルが深くなっったことから、話す内容がどんどん濃くなっている。

そのことは当ストーリーが進むのに従って記述内容がぐっと深くなっていることからもわかっていただけると思う。

ネットで公開すること、そして今後

なぜネットで公開するのか

本当は、第三者にこのストーリーを出版してもらいたい、宣伝してもらってより多くの人々に読んでもらいたい、そして皆さんに大いにインスパイヤされてほしい、と思っている。

だが、出版という高いハードルを越えるトライをしようという意思(がんばろうという覇気)が残念ながらいまの自分にはない。

実際は以前に共同出版(筆者と出版社とで費用を半分づつ持つ出版方法)という形で出しますかとのお声が一度ある出版社からかかったが、数百万円の費用がかかるとのことで断念した。そこまでの費用はちょっと出す余裕はない。

いまのご時世はクラウドファンディングというありがたいシステムもあるようだが、どうもその筋の術は僕にはややこし過ぎてその気になれない。

本音は誰か出版やクラウドファンディングやSNSなどでの広告宣伝を助けてくれる人が出てくるのを密かに期待しているのだが(笑)

で、どうしようかと思ったときにたどり着いたのが、このブログ形式にてインターネット上でこのストーリーを掲載させるということ。これならコストはほとんどかからず、自分で自由自在に体裁を考え、少なくとも公開のスタートが可能になる。

書いた内容は何度推敲を繰り返しても修正は必ず出てくるため、3年間の最初時点の記述から順を追って徐々に数ページずつUploadしていくことにした。

Uploadの頻度はおそらく週に2-3回程度になると思うが、慣れてくるとスピードは上がるかもしれない。

今後について

別にも書いたが、当ストーリーは現段階ではまだベータ版でもあり、このブログ形式でこの膨大なストーリーを全部読者の皆さんにわかりやすくストレスなしで読んでいただくため、必要に応じた変更や修正は随時行っていく予定だ。

始めの時点では、まだ情報量も大きくないので、素人の僕でも対応可能だと思われるが、Uploadした情報量が増えてくるに従い、やむなくいろんなところで不都合やほころびが出てくることも推測されるので、それは必須であると理解している。

当然だが、誤字脱字の修正や前後の整合性や連続性などを考慮して、先に書いた文面の修正も起こりえる。

さらに必要が出てくればだが、外観を大幅に変更したり、全体のストーリーを分割したり、サイトのアドレス(ドメイン)までも変更することになるかもしれない。

ただ1989年の時点で一度書き切った文面や主旨を変更することはしない。それはあの時の自分の思いをそのまま残すことが大変重要と思っているからだ。

いずれすべてが整った時点で、正規の形で公開という運びにする予定である。

☆ 当ストーリーに関するご質問やご意見などはお問合せのフォームからご連絡ください。

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