1985年4月D日
くだらない仕事

3日前から日本レストランでキッチンハンド(調理場見習い)の仕事を始めた。朝11時から昼の2時まで、そして3時間の休みの後、夕方5時から11時過ぎまで拘束というスケジュールを週6日間こなすという、日本のこの業界では普通かもしれないが、オーストラリアの基準でいうと超ウルトラハードな勤務体制だ。
そのため仕事が毎晩遅くなり、ニコルソン家にはもうお世話になれなくなり、昨日ジュウルハウスというYMCAの一つに引っ越した。
3日間勤めてみたが、このきわめて日本的かつ非オーストラリア的な職場は、はっきりいってオレにとってまったく何の意味もないところである。実際、オーストラリアくんだりまでやって来て、いったい誰が日本食の作り方なんか教わりたいと思うだろうか。
それにあの狂ったような忙しさ。オレが初めてこういう仕事をするためかもしれないが、午後7時半から9時半ごろまではまさに嵐のように忙しい時間帯である。そして少しでも失敗すると、オーナー兼マネージャー兼シェフが大声で怒鳴りたてる。ホント地獄の思いがする。
このレストランはオーナー兼マネージャー兼シェフのスズキ氏がボス。この店をもう10年近くやっている、パースの日本人の草分け的な人物だ。海外在住者には珍しい東北の仙台ご出身。
あとは副シェフのノリさん。スズキ氏にオーストラリアの永住権を獲得するためのスポンサーになってもらって、このレストランで仕事を始め、もう2年ここで働いているという。海外在住者を多く出す九州福岡のご出身。
キッチンはこの二人とオレとの3人で現在こなしているが、はっきり言ってあと二人は必要だ。オレが来るまで二人であの仕事量をこなしていたというが、信じられないような話である。
あとホールでの接客はオーストラリア人と日本人のウェイトレス7、8人が、交代で1日二人ずつ出るという体制をとっている。他の日本レストランと比べて、店内とキッチンはかなり広いが、スタッフの数は少ない方であるようだ。ホントよくこれだけの陣容で、あれだけ忙しい店をやっていけるもんだと感心する。
1985年4月E日
三つの目標

今日、スズキ氏にさんざんやり込められた。ホントなんであの人はあんなに人をバカだの、頭が悪いだのという叱り方をするんだろう。東北地方の名門高校出身で有名大学の受験に失敗したコンプレックスのなせる業なのかもしれないが、どうもあの人の人格の限界を見たような気がする。あの調子ではあそこの店で働いていくことに、さらに大きな疑問が出てこざるをえない。
この国ヘ来る前に掲げた目標が、自分には三つあった。
☆できるだけ深くこの国に自分を溶け込ませる。
☆何か一つについてこの国のスペシャリストになる。
☆英語を上達させる。
だが、今の仕事をしている限り、上の三つのどれひとつでさえ到底満足できはしない。一刻も早く他の仕事を見つける必要がある。
1985年4月F日
うっとうしい毎日

ジュウルハウスの部屋の中、午後4時を過ぎた。
ああ、あと1時間でまたあの地獄への逆戻りか。あのユーウツな空間へ舞い戻ることを考えるだけで胃にヒビが入ってきそうだ。
毎日、午後2時から5時までは昼休みという建て前になっているが、実質は1時間半も休めばもうけものの感じだ。この昼休みにこのジュウルハウスの自分の部屋へと帰ってはくるものの、ただランチタイムの疲れを癒すのが精一杯で、何もする気になれず、ただ寝るだけ。そして夜の帰宅は毎夜午前0時を過ぎる。
オレはいったいこの国へ何をしに来たんだろう。
1985年4月G日
疲れた日々

相変わらず疲れている。ジョブセンターにも、新聞にも手頃なのは一つも見つからない。まったく、どうにかしてくれ、と叫びたい心境だ。
店で英語を話す機会はウェイトレスの女の子たちに指示する時と、たまに店内が忙しくなった時に接客の手伝いをするぐらい。なんとなく英語も上達どころか、ますます下手になっていく一方のような気さえする。
1985年4月H日
偏狭なスズキ氏

ホントにスズキ氏は付き合うのには難しい人だ。あの人はノリさんが言うようにスーパーマンかゲゲゲの鬼太郎のごとき(氏はいつもゲタを愛用している)、恐ろしいぐらいタフな人である。
あの店は年中無休で、土、日にランチタイムがないだけの営業体制だが、自分が仕事し始めて以来、氏は休みなどまったく取った様子はなく、ただ毎日毎日ひたすら仕事をしている。それについては、大いなる尊敬の念を禁じずにはいられないが、ただあの人の人柄についてはまったく尊敬しかねる。
仕事が終わって、夕食(夜食かな)を食べた後、みんなでとりとめもない話をするのが、唯一この店にいてホッとするひと時なのだが、先だっての夜、みんなで日本の外交政策について、あれやこれやヘボ議論を広げていた時、それについては氏も興味があるらしく、みんなに加わって大いに盛り上がって話し込んだことがあった。
あの夜はオレもビールのおかげでボルテージが上がって、延々2時間ほどやり合ったが、あの人の他人を受け入れることのできない偏狭なまでの頑固さとこじつけにはまったく閉口、あきれた。あの人得意の、バカだのトンマだのデボ(これは仙台方面の方言か。バカ・アホの類の意味だろう)だのといった言い方はしなかったものの、彼はまったくオレやノリさんの言うことを無視、ただ自分の思うことをオレたちに押しつけてきただけだった。ホント、人と議論ができないとは、彼は気の毒な人だ。
こんな地球の果てで、たった一人10年もの間弧軍奮闘してきたゆえの悲しい結果なのかもしれないが、しかし、あの夜の彼の口のききかたは我慢の限界を越えるものだった。半ば気違いじみていたとさえ言えた。
ああ、次の仕事よ。早く見つかれ。