E11 ヒースロー空港の収容所/フィリピンの在マニラ日本大使館に電話

1986年2月B日 ヒースロー空港2日目の2

ロンドンからマニラへ電話

 しかし、気落ちばかりもしていられない。もしヨリコさんが送ったという小切手が実際マニラの日本大使館に着いていたなら、そこへ電話してそれを開封、確認してもらえばここの入国審査官も納得、オレを釈放してくれるに違いないのだ。
 オレはよしっと胸をたたいて気合いを入れ直し、おもむろにまた受話器を取り上げて、マニラへのコレクトコールをオペレーターに告げた。
だが、この試みも、またまたオレに強烈なゼツボーパンチを食らわせてくれることとなる。
 ロンドンのオペレーターは、インド訛のある女性の声。しきりにマニラのオペレーターを呼び出すが、何回呼んでも相手は応答に出ない。やっと出てきたのは半分寝ボケたような女性の声だった。2人の会話はオレにもはっきりと聞こえてくる。
「こちらロンドンです。マニラの日本大使館をお願いします。ミスターハルナよりのコレクトコールです。」
「はい、わかりました。」
 マニラのオペレーターはのんびりと受け答えする。つい3週間前まで滞在して、そのノンビリ具合を十分知り尽くした国とはいえ、こういう時に例の調子でやられると、やはり日本育ちのオレにはさすがにガマンに耐えかねる。
 オレは右手に持ったボールペンを左手の手のひらに押しつけて、顔をしかめ、ただ待った。
 マニラの局が呼び出し音を出し始めた。3回ほど鳴ったところで、ガチャリという音とともに受話器が取り上げられた。
「日本大使館です。」
 たどたどしい英語である。しかし明らかにその声には日本訛があった。
 オレは胸をなで下ろす。マニラの現地時間は午後5時を過ぎているはずだが、働き中毒の日本官僚らしき人はまだオフィスにいてくれた。
「ロンドンのハルナさんからコレクトコールがかかっておりますが、お受けになりますでしょうか?」
 マニラのオペレーターは、例ののんびり口調で問いかける。
「おいっ、ちょっとかわってくれ!オレわかんないよ。」
 そんな日本語のあと、新しい声で、
「もう一度言って下さい。」
との、再びたどたどしい英語での応対。
 オレはますますイライラして、ボールペンが左手に食い込んでいく。
「ロンドンのミスターハルナから、コレクトコールの依頼です。お受けになられますか?」
「ミスターハルナ?」
「Yes.」
 オレはハラハラドキドキだ。なにやら男性2人ほどが、受話器の向こうで話し合っているようす。それにしても、なんというたどたどしい英語だろう。フィリピンという、英語が第二公用語になっている国の大使館員がこの程度とは、まったく嘆かわしくてどうしようもない。
 そしてその十秒後、信じられない言葉が彼の口から発せられたのだった。
「Which company?」
 と彼の声。マニラのオペレーターがロンドンのオペレーターへ、ロンドンのオペレーターがオレへと、順に言葉をつないでくる。
「あなたはどちらの会社の方かって、先方は聞いてらっしゃいますけど。」
 なんで、ここで会社の名前を確認する必要があるんだろう。オレは、
「どこの会社のものでもありません。」
 と伝える。
 このあたりからオレの頭は、不安よりもむしろ憤りに占領され始めた。受話器の中では、大使館員がまた何やらヒソヒソと話し合っている。オレの左手はもう真っ黒けだ。
「×××××××××××。」
 大使館員のガタガタの英語のセリフが聞こえる。オレには何を言っているのかさっぱり聞き取れない。そして、ロンドンのオペレーターは言った。
「ミスターハルナ。残念ですが、先方はお受けにならないそうですが・・・。」
「受けないって?なぜ・・・。」
オレは張り上げそうになる声を、なんとか押さえた。
「先方はあなたの名前も素性もわからないということで、・・・残念ですが・・・。」
 なぜだーー!!?と、バカ大声で叫びたくなったのをなんとか押さえて、この絶望的な試みにオレは見切りをつけざるをえなかった。
「・・・・・わかりました。どうもありがとうございました。」
「どうもお気の毒ですが・・・・。」
「・・・いいえ・・・。」
 オレの名前も素性も知らないのはわかる。だが、いったいどこの誰がわざわざロンドンからつまらない用事で、数万キロ離れたフィリピンの大使館へと電話を入れるだろうか。それも失礼を承知のコレクトコールで。
もしオレが誰でもが知っているような会社、あるいはフィリピンへ進出しているような会社の名前を述べれば、彼らはあのコレクトコールを受け取ったのであろうか。
 三井物産のマニラ支店長が現在ゲリラによって誘拐・監禁されていることは知っていた。そして、もしあそこでオレが嘘を偽って、三井物産の名前を語れば、彼らはおそらくあのコレクトコールを受け取ったのではないだろうか。
 オレの場合は命を落とす心配がないだけまだいい。しかし、もし誰か日本人旅行者が海外で生命のピンチに立たされ、唯一残された頼れるものが日本大使館だけであった時、大使館がその連絡を受け取る意思をのっけから否定してしまえば、その旅行者はそのおかげで最悪の場合、命さえ落とすことにもなりかねない。
 そして、いまだに信じられない、あの、どこの会社の者か?という問いかけ。あの人たちのあの言葉の背景には、企業優先、一般旅行者軽視の潜在的な差別観念が明らか過ぎるほど明らかに見えていた。これがなんといってもオレには悔しかったのだ。
 受話器を電話機に叩きつけてやりたい衝動をぐっとこらえて、そっと受話器をもとに戻した。これで小切手の実在を証明することによって、釈放を勝ち取る途は閉ざされてしまった。
 オレは大きく息をして、近くの椅子にどかっと腰を下ろした。

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