1986年2月A日 ヒースロー空港1日目の8

1時間ほど眠ったころ、なにやら激しく議論する声に目を覚まされた。顔を上げると、官吏らしい男と国籍不明の女性と通訳の男の3人が、何やら真剣に話し合っている。女性の声は小さくて聞き取れない。官吏の吠えるような声だけが部屋中に大きく響いている。通訳は声の調子をできるだけ抑えて話している。
この女性はどうやらイランのパスポートを持っているらしい。ロンドンで用事をひとつ済ませて、ストックホルムの父親のもとに行くという予定だったようだ。
「だから言ってるでしょう!イランパスポート保持者はビザがなければイギリスへ入国できなくなったのです。」
通訳は彼女に通訳し、彼女はそれに応答し、通訳はまた官吏にそれを通訳する。
「☆◎■☆▲◎★◆☆◎◆。」
「彼女はスウェーデン生まれで、ストックホルムの父のところへ行くのだそうですが、ロンドンでどうしてもある知人に会わねばならないのだそうです。」
「そんなことは私たちには関係のないことです!最近、イギリスはイランやインドあたりの国々に対して、ビザの相互免除協定を破棄したことは知っていたはずです。もし知らなかったとしても、それは当人のミスであって、我々は規則を曲げることはできないのです。わかりますか!?」
「☆◎■☆▲◎★◆☆◎◆。」
「ロンドンの友人には絶対に会わねばならないらしいんですが・・・・」
官吏はますますボルテージを上げる。
「ビザを持っていなければ入国できない!規則ができたあとにはそれに従わねばならないことはあなたにもわかるでしょう!?こんなことに私は時間をとっていられないんです。あなたの乗るストックホルム行きの飛行機はもうすぐ離陸します。さあ、行きましょう!」
「☆◎■☆▲◎★◆☆◎◆。」
「彼女は行かないと言っていますが・・・。」
彼女は声を小さくし、官吏はとうとうドナリ声を上げた。
「ダメだ!!私はあなたを連れていかねばならない!さあ、早く!早く来るんだ!」
通訳は申し訳なさそうに、官吏のセリフを彼女に伝える。
彼女は立ち上がった、と思ったとたん、急に足もとをふらつかせ片膝を床についた。顔を両手で覆った彼女は声をこらえて泣いている。肩が震えながら左右に揺れて、彼女は通訳の腕にすがってようやく自分を支えた。官吏は顔を横に向けた。
3人は部屋を出ていった。また例の脱力感が部屋に戻ってきた。
こんな光景が、毎日毎日この部屋で繰り返されているのだろうか。これまでこの部屋は、何度このような無益な悲しみを見てきたことだろう。オレのケースを始め、このようなトラブルは誰の得にもならない。イギリス政府も旅行者も、誰もが不快な思いをする。
この国を取り巻く環境すべてがこの部屋を存在させているのだろうが、その環境が変わって、この部屋もなくなるなどという日が果たして来るんだろうか。ああ、頭がかすんでいく・・・・。