1986年2月A日 ヒースロー空港1日目の5

白人の女性が部屋の中の電話を使って、友人らしき相手に話しかけている。どうも相手は彼女を待つボーイフレンドらしい。
「ジョン、元気?」
「・・・・・」
「そう、よかったわ。」
「・・・・・」
「ええ、それが・・・ちょっと・・・。」
「・・・・・」
「いや、それがこっちは少し具合が悪いの・・・。」
「・・・・・」
「いや、身体はOKよ。でも・・・」
「・・・・・」
「あの、実は---というわけで(この部分は聞き取れなかった)、私は入国できないって言うのよ・・・。それで・・、入国審査官が、同じ飛行機で帰れって・・・・」
「・・・・・」
「・・・・本当よ。」
「・・・・・」
「ほんとう・・・・。」
「・・・・・」
「仕方ないのよ・・・。ジョン。」
「・・・・・」
「そうしたわ。」
「・・・・・」
「うん、でもだめだったの。私、すべてを話したのよ。あなたが私を待っていること、私とあなたのこと、そして2週間後から始めようというパリ旅行のことまで・・・。でも、それでもだめだって、彼らはいうの・・・。」
彼女は東ヨーロッパかトルコあたりの出身だろうか、英語に少しきついナマリがある。ボーイフレンドの激昂した様子が、声を聞かなくてもわかる。彼女はただNOを繰り返すだけだ。
「私、今まで3時間も彼らと話し合ってきたわ。でも・・・彼ら・・・、とても厳しくて・・・・。」
「・・・・・」
「私もあなたに会いたいわ。でも彼らは・・・・・。」
「・・・・・」
「ジョン。彼らは私の持ち物のすべてを調べたのよ、すべて・・・・。私の化粧道具のひとつひとつ、かばんの取っ手の内側や、下着のすみずみまで・・・そして、日記の内側まで・・・。それに・・・・。わたし、もう・・、悲しくって、悔しくって・・・・。」
彼女は涙で声をつまらせた。必死になって出ようとする嗚咽をこらえている様子がオレの背中に見えてくるようだ。部屋の中は静まりかえった。みんなうつむいたまま、身動きせずに彼女の電話を聞いていた。
「さよなら、ジョン。家へ帰ったら、すぐにまた電話するわ・・・・。」
「・・・・・」
「私も会いたくて、気が狂いそうよ。でも、それは許されないの。」
「・・・・・」
「私もあなたを愛しているわ・・・。またすぐに逢えるはずね。」
「・・・・・」
「・・そう願うわ。・・さようなら・・。」
「・・・・・」
「そうするわ。じゃあ・・・・・・・・。」
そういって受話器を置いた彼女を役人がドアを開けて待っている。コンパクトで軽く化粧直しを済ませた悲劇の主人公は、決して軽いはずのない足取りで、「特別室」を無言で出ていった。部屋は大きな緊張から解かれたような、一種の脱力感に支配された。