1986年2月B日 ヒースロー空港2日目の3

「あんた、日本からかい?」
「・・・ああ・・・。」
「だいぶん大きな声でやってたけど、残念だったみたいだな。」
「ああ、あの大使館の役立たずどもめ!」
オレは、話かけてきたこのアラブ人風の男に八つ当たりするような口調で応答した。オレの荒れた様子を見て取ったこの男は、オレの呼吸が収まるのを待って、また静かに話しかけてきた。
「みんなあんたと同じような思いでこいの部屋で待機してるんだ。そうカッカするなよ。」
「・・ああ・・、であんたはどうしてここにいるんだい?」
「オレか?・・・オレは不法労働で捕まったのさ。オレは十年前ベルギーから車のトランクに入ってイギリスへ入国して、これまでバレずにやってきたんだ。だけど、いまの職場の誰かが警察にタレ込みやがったんだろう。きのうポリ公が突然オレのアパートへなだれ込んできやがって、パスポートを出せって。オレのパスポートにイギリス入国のスタンプなどあるはずもなく、イッカンの終わりさ。今夜9時発の飛行機で帰ることになってるんだ・・・・。」
「ここの国の政府は、そんなに不法労働者を嫌ってるのかい?」
「嫌ってるなんてもんじゃないぜ。やつらはオレたちをまるで虫ケラのように扱いやがった。あのグータライギリス人の代わりに、せっかく人が一生懸命やってやってんのによぉ。矛盾だよなあ・・・。」
オレとアラブ人風の男との会話にもう一人の男が加わった。オレはその男にも、あんたはどうしたんだ、ときいてみた。
「オレかい?そいつと一緒さ。不法労働でね。これでとうとう6回目だよ。」
「6回目!?よくもまあそんなに・・・」
「なあに簡単だよ。オレの国アルジェリアではよくある話さ。あと半年もすればまたロンドンへ戻ってくることだし・・・。」
「へぇ、あんたそんなにまでしてロンドンにいたいかい。」
「まあね、気楽な町だしね。アルジェリアもいいが、いまオレはロンドンに住みたいんだよ。」
なんてタフな野郎だ。ホント、上には上、いや、下には下がいるもんだ。
実際、周りのやつらをよく見ても、それほどガックリした様子はない。それどころか、ほとんどのやつがテレビを見ながらでっかい声で、大笑いを部屋中に飛ばしまくっている。
「やつらはここの常連さ。みんなここの環境にもう慣れちまって、リラックスしたもんだよ。みんなオレと同じように何度でもまたこの国へやってくるつもりなんだよ。だからあんたもそうガックリした様子を見せんなよ。元気だせよ。」
あんたも、と同じように扱われては多少心外だったが、このアルジェリア人の男の話し方には何か心を落ち着かせる響きがあって、オレの心は少しずつ和やかさを取り戻していった。
入国審査官からは今日に入って何の連絡もない。果たしてオレはマレーシアまであの17時間の大フライトを再び強いられるのか、それともパリで降りることを許されるのか。
パリ経由クアラルンプール行きのフライトは明日の夕方だ。ふつう強制退去には乗せて来た航空会社が責任を負う形となり、オレの場合、入国審査官はマレーシア航空にオレを無料送還することに同意するかどうかを問う。
YESであれば、オレは無料で送り返されることになるが、もしNOであれば・・・・・、詳しくはわからないが、あまり愛しむべきことが起こりそうな気はとてもしない。
いずれにせよ、今夜もまた宿泊所泊まりになることだけは間違いなさそうだ。いまはただ時間が早く過ぎてほしい。それだけだ。
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