1985年6月A日
もっと勉強を

昨夜、スズキ氏にレストランで働く日数を減らしてもらいたいという意を伝えたが、あの店は本当にやめた方がいいかもしれない。今の自分は最低限、英語ぐらいはマスターしなければならない立場にある。英語を話す機会がほとんどない店での勤務時間中はそれに対してまったくの無駄な時間ということになる。
「私の留学体験」という、某新聞の連載記事に登場されていたエリートたちは、皆一様に外地にて毎日目がヘッ込むような思いで勉強していたと書いておられたことを思い出すと、今の自分がいかイージー過ぎるかがまったく情けない。もっともっと自分自身を窮地に追い込んで、上達のスピードを上昇させていかねはならない。
もうパースに来て3ヶ月近くたった。昨日は自分の英語が上達したと喜び、今日はまた元に戻ったとガク然とする。そんな毎日がこの数週間続いている。まさにローマは一日にして成らず、の思いがする。
そしてもう少し自分の時間が欲しい。自分自身の机が欲しい。それと、この国で人間らしい生活をするには自分の車が必要だ。それにオーストラリアのことをもっと知らねば。欲しいもの、やりたいこと、やらねばならないことは山のようにある。
まあ、いくら欲張っても、これら全部を一度に得られるはずもない。あせらず毎日ひとつひとつ手に入れていくしかない。
1985年6月B日
ノースロッジへ引越し

ジュウルハウスから引っ越して、店の近くのノースロッジというボーディングハウス(敷金を払う必要のないアパートのようなところ)に移った。ジュウルハウスは住み心地のよいところだったが、余りにも刺激がなさ過ぎてよくない。対してこのノースロッジは外観は英国の植民地風で、内装もけっこうクラシックな感じで、住民ももう少し「オーストラリアの人間的な」やつが多いようだ。
1階に共同キッチンがあって、そこでここの住民たちと顔を会わすわけだが、ここの若いオーストラリア人の英語はさっぱりわからない。トランプをしているあいつらの会話を横で聞いていても、まったくチンプンカンプンである。ホントにあいつら英語をしゃべっているんだろうか。
なかにはかなりタチの悪いやつもいるみたいだが、オレもやつらのことをとやかく言えたガラではない。家賃も週35ドルと安いことだし、まあ楽しくやっていこう。
1985年6月C日
レッドスター入会

この前の日曜日、この西オーストラリア州バレーボール協会の代表者ヤコビナさんにお会いして、「レッドスター」という名のクラブチームの一つを紹介して頂いた。
昨日そこの練習に参加させてもらったが、5年ぶりのプレーとしては、思ったよりかはできたようだ。
もちろん5年前に関西同好会リーグの決勝で、インターハイ出場選手が6人中3人いるチーム相手にエースとして打ちまくって勝った当時の力などもう出せるはずもない。だが、ネットも自分にとって初めての高さである2メートル43センチがそれほど高く感じない。身長170センチ強と、日本のバレーボール選手としても小柄な自分だが、十分にやっていけそうだ。
彼らのレシーブはみんな日本の下手な高校生並み。セッターはまあまあ。スパイクだけは2、3人いいのを打つやつがいる。みんな体格がよく、レギュラーの平均身長は185㎝くらいか。もっと練習すればもっといいチームになるだろうに。
だが、オレは入ったばかりで、最高グレードのシニアチームには入れてもらえないという。コーチのトニーがオレにはちょっと無理だと言われたのには、ムッときたが、まあ今のオレの力では何の反論もできないか。
キャプテンのリックがあんたのレシーブならきっと近いうちに上がっていけるだろう、と言ってくれたが、ホントそうあってほしいものだ。
平均年齢17才のジュニアチームの、オーバーパスひとつまともにできないガキンコたちと一緒にやるなんて、ちょっとバカバカし過ぎる。
1985年6月D日
英語ができない

今日でちょうどオーストラリアへ来て3ヶ月目。英語は依然うまくなったという実感がもてない。
スズキ氏はオレの英語は自分のより上手だよ、と言ってくれたが、今のところ自分にはどうも聞き取りがネックになっている。ノースロッジに住んでいるボブというアメリカ人が、オーストラリア人の英語は聞き取りにくいと言っていたのを聞くと、日本語というかなり荒い音のみで作られている言語を母国語に持つ自分には、いたしかたないのかもしれないが。
大学の同期で、オレより1年早くこの国に来ていた友人が、シドニーでツアーガイドの仕事をしていた時に、自分はシドニー出身だと大ハッタリをかましていたらしいが、オレがそこまで言えるようになるのは、はたしていつのことなのか。
頭を抱えても仕方のないことなのか。
少しでも自分が前進しているという実感。オレは今、それが一番欲しい。
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