1985年4月A日
難しい職捜し

簡単に手に入ると思っていた仕事がなかなか見つからない。自分が日本でやっていた建設業の営業なんていうキャリアは、外国へ出れば屁のツッパリにもならないことが、いやというほどわかる。外国では何か資格付きの技能を持っている人の方が、はるかに職を得るのに困難が少ないといえそうだ。
英語もまだまだネイティブスピーカーたちとは大きな差があることだし、持ってきたカネも余裕がなくなってきた。最初の仕事は高望みすべきではないのかもしれない。
1985年4月B日
ニコルソン家の農場

先日、ニコルソン家の別荘へ連れていってもらった。パースから南東へ車で約3時間走って着いたその別荘は、オーエンの父親の所有する農場をあわせ持っていた。
オーエンはこの農場の広さは1000ヘクタールぐらいとかいっていたが、イヤハヤそのダダッ広さにはおそれいった。
敷地の真ん中に幅3メートルぐらいの小川が流れ、その両岸にユーカリの木が並び、そして純褐色またはむしろ赤に近い茶色の大地に群がる数千頭の羊たちと、ここは100%典型的なオーストラリアの農場である。
この農場はふだんオーエンの父親が管理して、彼は雇い人と二人でこの土地に住んでいる。われわれが泊まったのは昔ニコルソン家が生活し、オーエンも生まれたという古い石造りの家だった。
現在、誰も住む人のいないこの家は築後すでに100年近くとかで、オーストラリアの国の歴史からすれば、重要文化財に指定されてもおかしくないと思える、早い話が屋根の傾いたオンボロ小屋である。
しかしながらこの家はたいへんユニークな魅力を持っている。というのは、この家にはなんと電気もガスも電話もない。したがって、もちろん冷蔵庫も、照明器具も、ストーブもない。19世紀までの人間の生活というのはこんなもんではないかと思わせるクラシック度満点の家である。
彼らはひと月ないしふた月に一度、週末を過ごしにここへやってくるそうだが、ここへ来る時は腐るような食料は持ち込まず、簡単に料理できる材料を揃えて来るという。
料理のための火は薪でおこす。薪は農場から枯れ木を集めて、斧でそのサイズに切り込む。ここまでくれば、西部劇に出てくる開拓者の家の感じそのままである。もし、丘の向こうからインディアンの衣装をまとった人たちが、「ヒャッホー!」とか叫びながら駆け降りてくれば、ジョン・ウェインが口笛を吹きながらどこからか現われてきそうなムードすらある。
農場の中を午後一人で歩き回ってみたが、果てしなく広がる大地と遠くに連なる山々、そして雨風を事もなげに数十年、数百年受けとめてきたユーカリの林、そしてあのオーストラリア特有のただひたすら青い空と、しばし時間を忘れさせてくれるひと時を味わうことができた。
小屋から小川を2キロほど下ったところのユーカリの林の中で、大の字に寝っ転がって上を仰いでみた。バカみたいに青い空をバックに、鮮やかな黒と白のツートンカラーの鳥と、明るい緑色のオウムが木立の間を交錯しながら賑やかに飛び交っていた。
目を閉じると、ここでは人間が作り出す音は本当に一切聞こえない。風が木々を揺する音と、鳥の鳴き声、そして遠くに響くメェーという愛敬のある羊たちの声だけが、耳の中で戯れるのみ。
再び目を開けると、高く白い雲に鮮やかなコントラストをなす狂ったように藍に近い西オーストラリアの空が、オレを包みこもうとする。この時、オレという一個の生命体は、周りの大自然のただの一片の構成物と化していた。
自然を楽しむということ、それはすなわちその中に浸りきることなのだ。この農場は何よりも、誰よりも饒舌に、オレにそう教えてくれた。
1985年4月C日
仕事見つかる

やっと仕事がメッかった。最後の砦と考えていた日本レストランだ。週50時間以上働いて180ドルとはちょっと安いけど、このパースでは、やはりシドニーやメルボルンのように興味ある仕事を見つけるのは難しいようだ。
この西オーストラリア特産のワイルドフラワーを扱っている栽培場での仕事をなんとか、と思ってはいたものの、この国の人々の高い失業状況下では、英語もままならず特に経験も持たない自分には壁は厚すぎた。カネもないことだし、残念だがここらで手を打つしか、当面仕方がなさそうだ。